論理モードで書く・読む訓練

未分化な文章


記事の楽しさは記事から想起されるイマジネーションである。そのへんは絵画と似ている。楽しい文章には、感情が伴い、読み手の心の中では心理的な起伏が発生している。

記事には事実を伝える部分(情報)と情念を起こす部分(心理駆動)がある。ニュース記事は情報を伝えることが重要であり、小説は情報をちりばめながらも心理駆動がより重要である。

相手がコンピューターの場合


多くの場合、情報と心理駆動に関して意識せず未分化な状態で文章に落とされていく。読み手も未分化な状態で読み進み、無意識のうちの新しい情報を獲得しつつ心に感動も植え付けられる。

もし読み手がコンピューターの場合、心理駆動は意味のない部分。コンピューターは情報と事実関係のみを整理することが仕事であり、情念の部分は欠落している。

欠落しているが故にいなかる記事、人が読めば心乱される記事でも、冷徹で正確な判断が可能となる。


意識して使い分けたい論理モードと感情モード


思うに書き手は意識して事実の部分と感情の部分を切り分けて記事の目的を達成するべきではなかろうか。

交通事故が発生すると、日本では当事者の対立でよく耳にする言葉が「誠意を見せろ」である。ある外国人が「つまり、カネを出せ」という意味?と言っていた。

「誠意を見せろ」は同じ日本人として理解できる言葉ではあるが、感情と理論がかなり未分化である。何をどうしたいのかが不明瞭であり、意味もなく泣きじゃくる子供の心理状態と似ている。

コンピューターを相手に話す場合は、明らかに「カネを出せ」というべきである。アクションポイントが論理的に明確になる。

知人から「こんなメールよこすな!」と怒りのメールをもらったとする。論理モードで読めば、メールを送らないでほしいという事実関係しかないが、人間が読めば、激しい言葉は感情モードそのものである。

「あれ、ヤツは相当頭に来ているな」と感じる。

そう感じた上で、相手はその後の対応を当方に期待しているわけだが、その期待する内容は察するしかない。


感情モードに引き込まれない訓練


書くときも読むときも、論理モードと感情モードを自在に使い分け、もっとも効果的に相手に伝える、または、もっとも冷静で正確に相手からの情報と事実関係を認識できる訓練が必要。

人は、子供を見てもわかるように、感情モードは生まれつき持ち合わせているので、論理モードは訓練によって獲得するしかない。★


  • (2011-12-18 07:09:00)







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