国立駅と谷保駅を結ぶ出口のない大学通り
  • (2011-06-29 18:32:48)

2010/03/01

国立駅の歴史を眺めると一橋大学との深い関係が見えてくる。国立駅のおもしろさは中途半端な計画性だと思う。

国立駅はもともと西武帝国(当時、箱根土地開発)の堤康次郎氏が、甲武鉄道(現、中央線)沿線に一橋大学(当時、東京商科大学)を誘致するために設けた駅とのこと。堤康次郎氏の学園都市構想の一つの結果が国立駅の起源と言える。

堤康次郎氏の学園都市構想 西武鉄道沿線には現在「大泉学園」「一橋学園」という駅名の駅があるが、これらも堤康次郎氏の学園都市構想がベースととなっている模様。堤康次郎氏には多数の学園都市構想があったに違いない。

学園都市とはいってももともと大学があるわけでなく、街を整備した上で大学を誘致し、その後一大学園都市を形成するという発想であり、商業的目的からスタートした大規模な土地開発計画である。

商業デベロップメント。自然発生的に生まれた街はヨーロッパも日本も曲がりくねった小道がベースとなり整然さに欠けるので区画整備された街を作るにはこのように計画性をもって整備した方がよい。

鉄道のビジネスモデル 鉄道の敷設計画を立て周辺土地を買い占めて大がかりな不動産開発を行った上で再販売することが小林一三氏以来、鉄道のビジネスモデルに思えるが、国立駅は買収が必ずしも徹底していなかったようだ。

一橋大学誘致予定の南口は大学通りを中心に綺麗な碁盤目状に区画と道路が敷設されたものの北口にはなんら大規模な開発計画の痕跡は見られない。そもそも国立駅開業後、長い間、北口には改札がなかったとのこと。

昭和34(1959)年9月1日─国立駅北口開業(「国立駅 今、むかし」)

写真には「それまで雑木林しかなかった北側に改札口が設けられました」と簡単な説明が補足されている。このことから堤康次郎氏の構想には「北口」が入っておらず、そのため南北を通すルートや道路・通路には多くの関心が払われていなかったことが伺える。

欠落していた北口開発構想 国立駅開業当時、「谷保村」と呼ばれていた周辺は実質雑木林で、谷保天満宮周辺の国分寺崖線から湧き出る湧水エリアを中心にささやかな農業が営まわれる以外、これといった産業がなかった。

当時ならこの周辺の土地買収は辣腕で鳴らした堤康次郎には赤子の手をひねるようなものだったろうに、北口エリアに関心が払われなかったことは現在の国立市民にとって惜しいことかもしれない。

南口の大学通りを中心に左右整然とした美しさと徹底した統一感はすばらしい。しかし、南口の美しさも大学通りの行き着く先が谷保駅ロータリーということをはじめて発見したとき拍子抜けした。

素直に甲州街道に抜けないところが都市構想計画の徹底性の不足であり大学通りがもったいない気がした。国立駅・谷保駅の間ともに出口のない幹線道路は結果的に大型輸送トラックの侵入を防ぐ結果となり、静かな街づくりにはむしろよかったのかもしれない。

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