古代の都市、武蔵国分寺跡
  • (2013-03-17 15:27:32)

●国分寺とは?

東京都国分寺市は東京郊外に拡がる武蔵野の中にあります。奈良時代、聖武天皇によってこの地に国分寺が建立されました。聖武天皇は仏の力によって五穀豊穣と安定した社会秩序の実現を目指しました。国分寺はその壮大な国家プロジェクトの目玉政策だったのです。

この地の国分寺はとくに「武蔵国分寺」(むさし・こくぶんじ)と呼ばれます。聖武天皇は全国60カ所以上に国分寺の建立を命じましたが、その中で武蔵国分寺は金堂、講堂、七重塔その他からなる伽藍で、隣接して尼寺(にじ)が併設されました。奈良・東大寺の総国分寺とともにとくに規模が大きかったことで有名です。

●武蔵国分寺が、草深い武蔵野に設置された理由

武蔵国分寺周辺は当時うっそうと茂る武蔵野の森に覆われていたが、国府が置かれた現在の東京都府中市に隣接していたこと、また、蝦夷(えぞ)勢力に対する防衛上の理由から武蔵国分寺は重要拠点と見なされたようです。

国府とは古代のメトロポリスと言えるでしょう。奈良・平安時代の律令制体制下における政治的・軍事的拠点です。現在でこそ、政治・経済の中心は東京ですが、関東地方の首都機能は古代においては国府、鎌倉時代から江戸時代以前までは鎌倉に多くの機能が集中していた。

そのため、国府には古代のハイウェイである東山道武蔵路(とうさんどう・むさしみち)が走り、そして、鎌倉は東日本の多くの重要な街道が交差するハブ的存在で、とくに鎌倉を起点とする重要幹線ルートは鎌倉街道(旅心をそそる心地よい響きですね)と呼ばれました。

●ローマ帝国を彷彿させるハイウェイ・東山道武蔵路

東山道武蔵路は側溝を備えた幅12メートルの大道路で、現在の4車線国道なみの広さです。武蔵野国(むさしのくに、現在の東京西部・埼玉県)を南北に走る古代官道です。驚くべきことはほぼ直線に通されたことです。

最短で大軍を派遣させることを想定した道路だったと推測されます。日本ではこのような高速道路は現代に至るまで出現することはなく、ヨーロッパではローマ帝国が敷設した街道と思想が通じます。

武蔵国分寺はその東山道武蔵路の沿線にありました。武蔵野国を走る後代の鎌倉街道はかなりの部分が東山道武蔵路と平行、もしくはオーバーラップしていますが、直線性や道路幅・設備・機能の点で退化しました。

これはローマ帝国のハイウェイ思想を受け継ぎながら、到底比較にならない道路しか造れなかった中性ヨーロッパの事情と酷似してます。

●武蔵野で営まれる人々の歴史

武蔵国分寺は当時の大都市である国府・鎌倉に近かったこと、幹線ルートである東山道武蔵路・鎌倉街道の沿線にありました。武蔵野という草深い土地にありながら、人々の生活の営みと政治・宗教のドロドロの人間ドラマが展開された場所です。

栄華を誇った武蔵国分寺は建立より600年後の鎌倉時代1333年、分倍河原の戦い(ぶばいがわら・のたたかい)で大敗した新田義貞軍が敗走の際、火を放ち焼失したと伝えられています。

新田義貞は鎌倉幕府打倒を目指し数十万の大軍を率いて下野方面から鎌倉に向け南進中でした。分倍河原は鎌倉幕府滅亡時の最大級の激戦地です。

●武蔵国分寺の焼失

焼失した武蔵国分寺は新田義貞によって薬師堂が寄進されましたが、本格的な再建立は実現せず、人々のわずかな伝承以外、歴史資料から忽然と姿を消します。

遺跡は地表や地中に残骸が点在する形で忘れ去られ現在に至りました。武蔵野は水に恵まれず開墾と水田開発を免れた台地です。そのため遺跡も過度な開発にさらされず現在まである程度が残される結果となった。

●現代に蘇る姿

関東大震災(大正時代)の後、被災者を中心とした人々による武蔵野への一大引越ムーブメントが起き、武蔵野の開発は加速します。それまで武蔵野はうっそうとした森が残る森林地帯でした。

そんな武蔵野のまっただ中にある武蔵国分寺跡の発掘調査は600年の静寂の後、近年に至りようやく行われ、武蔵国分寺・国分尼寺と隣接した古代のスーパーハイウェイ東山道武蔵路の姿が次第に明らかになりつつあります。

発掘調査は現在も多くの予算が投下され継続中です。武蔵国分寺跡を訪れ、大空に開けた遺跡跡に立つと、かつてこの地で繰り返されてきたドロドロの政治闘争や喧噪な戦乱の歴史が思い出されてきます。芭蕉の「兵どもが夢の跡」の香りがそのまま蘇るスポットです。

------------------------------- 写真解説 -------------------------------

現在の武蔵国分寺跡は建物らしきものは何も残っておらず大空に向かって拡がる広場となっています。

■写真(1) → 国分寺復元模型(武蔵国分寺跡資料館)・・・中央の一番大きい建物が仏像を安置する金堂、その後ろが僧侶たちが学ぶ講堂。左奥にわずかに見える道路が、古代のスーパーハイウェイ東山道武蔵路。

■写真(2) → 七重塔の復元模型(武蔵国分寺跡資料館)・・・七重塔の高さは推定60m。武蔵野の森の中に、ひときわそびえ立つ勇姿は空想するだけで感動的です。

当時の人々は我々がスカイツリーを見上げて感嘆する以上の驚きでこの七重塔を見上げたことでしょう。

■写真(3) → 七重塔の台座跡と思われるエリア。

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